ヨガ・仏教のすすめ[札幌]

札幌ヨガ・仏教の紹介です。札幌でヨガの先生をしているOKAのブログです。

目次 《仏教・ヨガの基本編》

仏教・ヨガの基本編》

まずは第一話からご覧ください。

第一話 ヨガとは 札幌ヨガサークル - 札幌ヨガサークル

第二話 ナーディーとは その1 - 札幌 男性 ヨガ

第三話 チャクラとは - 札幌 男性 ヨガ

第四話 チャクラとクンダリニー - 札幌 男性 ヨガ

第五話 カルマの法則 その1 - 札幌 男性 ヨガ

第六話 カルマの法則 その2 輪廻転生 - 札幌 男性 ヨガ

第七話 カルマの法則 その3 - 札幌 男性 ヨガ

第三十三話 最高の音楽とは

今回は真理という観点から音楽について話したいと思います。

 

 

仏教・ヨガにおいては音楽によりどれだけ本質的な幸福になれるのか、高い世界に生まれ変われるのかと言うのがポイントになります。

 

幸福度と言ってもそれぞれ幸福を感じるものは違いますし、ある人はサッカーある人はお酒が好きと色んな幸せがあるので、ここでは科学的な尺度で幸福を定義しましょう。

 

人は幸福感を感じると脳波が変化します。

 

イライラしている時、嫌悪している時は脳波がガンマ波といってギザギザした荒い脳波になります。

 

平常時はベータ波となりガンマ波よりも緩やかな波になります。

 

リラックス状態になるとアルファ波になり、

さらにそれよりも深いリラックス状態、例えば眠っている時とか瞑想状態になると

シータ波、デルター波とより大きな波の様な脳波になります。

 

 

厳密に周波数でこれらの波形は区分されているのですが、今日は科学の話が主題ではないので割愛します。

 

よってここでは脳波がより緩やかな波になればなるほど幸福感が高いと定義しましょう。

 

音楽には色んなジャンルがあります。

音楽のジャンルや作詞、作曲により音楽を聞いているときの脳波が変化します。

 

 

例えば、暗いジャズとか、激しい破壊的なロックだと荒い脳波に誘導されます。

なのでジャズやロックは一見聞いていて楽しいかもしれないですが、感情の起伏が激しくなりその分苦しみも大きくなるので本質的に幸福になれるかと言われればそうではないということが言えます。

 

 

ではポップスはどうでしょうか?

これもあまり脳波によい影響を与えるとは言えません。

ポップスにもよりますが、現代のポップスは感情が動くような作詞、作曲が多いですね。また、恋愛の歌が多いですけど、性欲を強めるような歌というのは脳を破壊します。

恋愛すると盲目になるとか、馬鹿になるという言葉がありますが、あれは例えではなくて本当に脳が退化します。

 

 

よく大学の受験に合格するために彼女と距離を置くとか別れるとかありますが、あれは実は合理的ということが出来ます。

なので恋愛も程々に出来るとよいですね。

 

 

では演歌はどうでしょうか?

演歌は義理人情、愛情の歌が中心になってくると思います。

愛情というと仏教では人間の世界の心の働きという位置づけになります。

なので嫌悪・地獄のロック、動物のポップスよりは良いということが出来ます。

 

ただ愛情も仏教・ヨガでは捨断の対象になります。

過度に愛情を持つと別れがあった時に苦しみを生じさせます。

愛情は人間の転生の原因となるのですが、世界全体からしたら人間界は何十とある世界の中の下から四番目に位置します。

 

 

次にクラシックはどうでしょうか?

モーツァルトの曲を聞くと、IQが上がるとか休まるとかいう研究データがあります。

実はクラシックは作曲家が天界で流れている音楽をインスピレーションにより取り入れて作曲していると言われています。

 

クラシックにもよりますが、クラシック全般が好きな人は天界のカルマがあるといえます。

ただ、全部が全部クラシックはOKかというとそうではなくて、ベートーベンのジャジャジャジャーンという曲なんかは絶望的になったり暗くなったりしますので全部良いというかというとそうでもありません。

 

 

一番良いのは天界よりも高い世界で流れている音楽です。

しかし、そんな音楽を作れるのは天界よりも高いステージの瞑想家しか作れませんし、偽物の瞑想家もいますので中々本物を聞けることはありません。

 

 

私の先生が作った音楽を聞いた時は、モーツァルトよりも素晴らしく、クンダリーニが上がり幸福感に包まれます。この世にはない音楽ですから別次元の音楽ということが出来ます。

(もっと詳しく知りたい人はこちらへ→こちら

 

 

さてみなさんはどのテーマの音楽に興味がありましたか?

できるだけ高い世界の音楽に興味が持てると良いですね。

 

第三十二話 最高の食事とは

今回は真理において最高の食事についてお話したいと思います。

 

なしたことが返ってくるカルマの法則から考えると貪ることは誰かの食べ物を減らしてしまうことになります。

特に、無駄に食べ物を残したり捨てたり過食している裏には飢餓で苦しんで死んでしまう人が沢山います。

世界では私達日本人のように裕福な人よりも貧困で苦しんでいる人が多いのです。

 

 

資源は有限なので、貪ることは、カルマの法則により将来において食事が取れないという原因になってしまいます。

 

食事が食べられない状況というのは貪りのカルマなのです。

 

つまり、ヨガ・仏教においては少食が基本になります。

 

仏典には1日4食は餓鬼の食事、3食は動物の食事、2食は人間の食事、1食は聖者の食事と言われています。

 

現代では3食、4食が当たり前ですからほとんどの人が餓鬼か動物ということになります。

私は子どもの頃からなんで一日三食食べるのか疑問でした。

食事を取ると体が重たくなるし頭が働かなるからです。

証券マンのときも、株の発注を間違えると大変なことになるので食事は腹五分目にしてました。1000万円の注文を1億と間違えたら大変ですからね。

 

 

そもそも食事を取ることも嫌いだったので子供の頃は食事をとることはなんて苦しいんだろうと考えていました。

 

特に、肉や魚が苦手で食べることが苦痛でした。

 

食べない私に家族が不安になって食べる度に褒めてくれました。

そして、食べることは素晴らしいことだと思った私は家族に好かれるためにどんどん食べるようになっていきました。

 

そして、大人になったころにはグルメ志向となってしまいました。

 

現代が三食が推奨されているのはエジソンがオーブントースターを発明して、世に売り出す為に三食は健康なんだと宣伝した為です。その前は二食だったわけです。

日本でも江戸時代は二食でした。

 

元々一日、三食食べることは一日中胃の消化にエネルギーを使ってしまい、他のことにエネルギーを使えなくなってしまいます。

 

 

そんなこんなで現代ではお金を儲けるために食事は素晴らしいものだと宣伝しているわけですが、事実は違います。

 

現代の栄養学は餓死しない食事の延長上に理想的な食事があるのでバランス良く取ろうと提唱していますが、実際根拠はありません。(栄養バランス良く食事を取ることを完全に否定しているわけではありませんのでご注意下さい)

 

餓死しない食事の延長上に理想の食事があるとは限りません。

 

 

マウスの実験でこんな実験があります。

満腹まで食事をあげたマウスと少食のマウスの寿命を調べる実験なのですが、少食マウスは満腹マウスの1,5倍長生きしたそうです。

 

また、そのマウスに放射線を浴びせたのですが、少食マウスは癌になったマウスは0でしたが、満腹マウスの8割が癌になってしまったそうです。

 

 

 

では真理、ヨガ、仏教ではどのような食事が理想とされているのでしょうか?

 

それはカルマが浄化を推進されるような食事、修行が進む食事がベストということになります。

 

 

例えば根菜類の野菜はエネルギーが上がるから良いとされています。

人参やじゃがいも、ごぼう等ですね。根はこれから生えて地上に伸びていくのでエネルギーを上げる性質があります。

また、蕎麦もエネルギーを上げる性質があります。

 

なので私の日々の食事は根菜類中心の水煮や蕎麦(8割が蕎麦粉のもの)が中心ですね。カレーは根菜類中心なのでカレーも良いかもしれません。

元々カレーは修行を進めるために作られた料理という説があるぐらいです。さすがインドですね。

 

肉、魚は暗性食と言われ、動物のカルマを強めるので控えていますが、ヒンドゥー教のように厳密に少しでも豚肉が入っていったらというように細かくは気にしていません。

 

仏教では肉食は禁じられていないのです。

 

ただ、動物とカルマの交換になりますのでなるべく控えていますね。

 

 

一番良くないのは殺生してしまうことです。

例えば魚を釣って食べるとか、生きたまま海老を食べるとか、生きた貝を茹でるとか。

これは殺生のカルマになり、そのカルマが返ってきたら最悪の場合地獄行きです。

 

殺生食は絶対にやめましょう。

 

あと、味は薄味が良いとされています。味覚を強めると反対側の不味いものを食べたときの苦しみが強まります。

また、濃い味を好むのは動物のカルマを積むことになります。動物は濃い味が好きですからね。

 

 

また、料理をする時の心の働きも大事です。

私は料理を食べると作っている人がどんな心の働きで作っているかが分かります。

 

みんなの心が浄化されるようにと修行が進みますようにと作っている食事は活発になり、嫌々作っている食事は心が沈鬱になり動けなくなります。

 

同じ食材同じ料理でも味が変わるのです。

(もっと詳しく知りたい人はこちらへ→こちら

 

さぁみなさんも修行が進む食事に切り替えてみてはどうでしょうか。

第三十一話 宗教の考え方 その2

前回に引き続き、宗教について論じようと思います。

 

 

宗教と聞くと

 

 

「洗脳」

 

 

というイメージを持つ方が多いかと思います。

このブログを読まれている方も、そのような言葉を思い浮かべる方がいらっしゃるかもしれません。

 

洗脳という言葉の意味合いは人それぞれですが、本人の意志に反して強制的に行動を変えてしまうものだと定義したら、このブログで語られている仏教・ヨーガは洗脳とはかけ離れたものだということがいえます。

 

仏教は大変科学的に説かれており、信じるものではなく、自分で理論を学び納得して実践して体験出来るものだからです。

 

 

他にも

 

「マインドコントロール

 

という言葉も宗教と聞くと連想する人がいるかと思います。

マインドコントロールを直訳すると精神のコントロールということになります。

 

マインドコントロールと聞くとやはりおどろおどろしいイメージがありますが、

日本語に直すと大したことないですね。

 

むしろ自分の精神コントロール出来なきゃ不味いじゃないかと思われる方もいるかもしれません。

自分の精神をコントロール出来なかったら精神病になったり大変なことになりますよね。

むしろ、マインドコントロールは良い言葉ですね。

 

自分で自分をマインドコントロールしましょう。

自分で自分の精神を自由自在に操るのがヨーガであり、仏教です。

 

 

 

次に宗教と聞くと連想されることに

 

 

「金取り宗教」

 

「詐欺」

 

 

というイメージをする方がいるかもしれません。

宗教を始めるとお布施と称してお金を搾り取られて大変になるのではないかというイメージです。

 

 

しかし、元々お金を取ることに善悪はありません。

 

お金を取ることに善悪があったら株式会社は金銭、利益を上げることを目的とした組織ですから全て悪ということになります。

 

重要なのはお金で何が得られるか、お布施されたお金が何に使われるかです。

 

 

もし、お金を使うことでお金以上の価値が得られるならお金は出したほうが良いということになります。

もし、お金を使うことよりも得られるものがお金より価値が低いのならお金は出さないほうが良いということになります。

 

 

私はある仏教のお寺に資産を投げ打ってお布施していますが、カルマの法則を確信、体験していますし、お布施をすることによりいつでもお金がほしい時は得られるし、お布施により神秘的な力が身についたのでお金よりもよっぽど高い価値を得られました。

 

 

その仏教の僧に何の力も無ければそのお布施は価値がないといえますし、僧に力があればお布施というのは最高のものとなります。

 

また、使ったお金がどのように使われているかも大事です。

こんな話があります。北朝鮮の貧しい恵まれない人の為の寄付をしたら北朝鮮の武器になっていたと。

 

これじゃあ、意味がありません。

 

自分が出したお金が世のため人の為になっていれば、カルマの法則から考えると自分にとってもプラスになります。

 

日本のお坊さんはお金を集めて私生活やお酒、タバコ、遊びに使っているわけですからそのお布施は無駄金ということが出来ます。

 

 

 (もっと詳しく知りたい人はこちらへ→こちら

なのでみなさんもお布施とか言葉のイメージだけでとらえるのではなく中身、本質を追求するように頑張りましょう。

第三十話 宗教の考え方について

みなさんは宗教と聞くとどのようなイメージがありますか?

 

恐らく多くの人が良いイメージはないかと思います。

私もそうでした。

宗教と聞くと洗脳されてお金を騙し取られるイメージや、ありもしないことを信じ込んでいる感じ、宗教は心の弱い人がやるものだと思っていました。

 

 

宗教の中でも特にイメージが悪いのは「新興宗教」ではないかと思います。

宗教に理解のある方でも新興宗教はだめという方もいるかもしれません。

 

 

でも、よく考えてみましょう。

新興宗教とは字を読んだ通り、新しく興った宗教です。

新しく出きた宗教という意味でそれ以上でもそれ以下でもありません。

 

 

つまり、2000年前にはキリスト教も新興宗教だったし、2600年前は仏教も新興宗教ということが出来ます。

 

でも、新興宗教と聞くとそれだけでおどろおどろしい洗脳などのイメージが出てくると思いますが、これこそ偏った見方と言わざるを得ません。

 

 

もちろん、現代の多くの新興宗教がお金を集めて私腹を肥やしたり、信じれば救われる型の宗教なので、そのように考えてしまうのもしょうがないのかもしれません。

 

 

ただ、当然、宗教の中にも良いものもあれば悪いものもあり、新興宗教にも良いものもあれば悪いものもありますので、ありのままに数学的、論理的に考えたら

 

 

新興宗教=新しく興った宗教

 

 

と捉えた後にじゃあ中身はどんなものなのかと考えるのが正しいあり方ではないでしょうか。

 

 

では次に宗教について考えてみましょう。

宗教と一言で言っても色んな宗教があるかと思います。

 

仏教キリスト教ユダヤ教イスラム教。

 

宗教と聞くとこれらをイメージするかもしれませんがそれだけではありません。

一般的に信仰することやや思想、観念をすべて宗教を定義するとしたら、資本主義や共産主義なども宗教と言うことが出来ます。

 

物・サービスを買う共通の価値観としてお金を物差しにしましょうと思想、これが資本主義ですが、資本主義も宗教になります。みんながお金に価値を持っている、法律が正しいと信じているから資本主義が成り立っているわけです。

 

仮に世界中の人が一斉にお金というものが価値のない者だと信じたら、例えば世界戦争が起きてハイパーインフレのようなことが起きたらお金で物サービスは買えなくなるわけですから、資本主義は成り立たなくなるわけです。

 

 

共産主義はみんなで物を平等に分配しましょう、そうすると幸せになれますよという思想ですよね。だから共産主義も宗教ということができます。

 

 

じゃあ無宗教の人はどうでしょうか?

 

 

「私は宗教は信じない!」

 

 

という方、特に日本人は多いですよね。

でも、無宗教も実は宗教なんですよ。

 

神や仏は存在しない、死んだら無になるという思想、信仰なんですね。

 

つまり無宗教の宗教を信仰しているわけです。

 

 

なぜなら、死んだら無になるとか、神や仏は存在しないということは全く証明されていないからです。逆に臨死体験仏教やヨーガ、キリスト教を実践している人は数多くの神秘体験をしているわけです。

 

絶対と言いきれるものではないですが、無宗教の根拠は薄いということが出来ます。

 

 

では科学はどうでしょうか?

 

科学も一種の宗教だと言うことがいえます。

私達は高度な科学文明に支えられていますが、その仕組みを説明したりできる人はほとんどいないかと思います。

 

例えばパソコンとかスマートフォンなどを日々私達は使っていますが、情報工学科の私ですら、パソコンやスマートフォンの仕組みの全てを知っているわけではありません。

知っている割合といえば5%〜10%です。

 

つまり、私は科学を信じているわけです。科学を信じているから仕組みが理解出来なくてもパソコンが動くと信じているから疑問を持たずに使っているわけです。

 

また、科学は今正しいと言われているだけで数十年、数百年経ったら間違っていたということはよくある話です。過去の理論の常識が、今の非常識になっているのが科学です。

 

例えば、ニュートン力学に過ちがあると相対性理論を提唱したのがアインシュタインですが、それも否定され、現代では量子力学が科学の中心になっています。

 

量子力学ももしかしたら将来は間違っていると証明されるかもしれません。

 

 

 

では、正しい信仰、宗教とは何なのかについて考えてみましょう。

 

 

人に必要なのは宗教ではなく真理ということが出来ます。

なので宗教の中身が真理であれば実践するべきだし、真理でなければ実践しないほうがよいということができます。

 

科学でも真理であれば実践した方が良いし、真理でなければ実践しないほうが良いということになります。

 

真理というのは何かというと、論理も正しく、論証だけでなく実証も出来ることということが出来ます。

 

科学の世界では何を持って正しいかと判定するかというと論証と実証ということが出来ます。

 

理論があってその理論が実証出来ればよいということです。

 

 

実はこの論証と実証を突き詰めたものが仏教なのです。

仏教は大変論理的に説かれており、絵に書いた餅ではなく実践したら仏典通りの体験ができます。

ただ信じるだけではだめなのです。

 

仏教は、信じて実践して体験して体験を深まるものなのです。

 

 

仏教に地球が崩壊する有様を現代科学の予測と同等で説かれている仏典があります。

また、仏教と科学ではこの宇宙が消滅する時期が78億年後と一致しています。

 

 

真理を突き詰めたらどんな分野であれ、到達する点は同じということが出来ます。

 

 

「真理は一つ。」

 

 (もっと詳しく知りたい人はこちらへ→こちら

それでは今日はこれぐらいにしましょう。

第二十九話 五蘊無我その2

さて五蘊の説明もあと、経験と識別の残り2つになりました。

 

 

経験。

私達は過去に色んな経験をしています。経験をしている、経験の集積が自分なんだと思う人がいるかもしれません。

いついつどこどこで旅行に言ったのが自分。何々小学校に通ったのが自分。どこそこ会社に勤めているのが自分。

 

 

さてこれはさすがに自分だろう、経験はどう考えても自分だろうと思う人が多いと思います。

これを解説するのは難しい所ですが、多重人格者の例を上げましょう。

 

多重人格者は人格が変わると学んでいない言語を学んだり、自体が変わったり、力や性別も変わります。好きな食べ物も変わります。

私が以前付き合っていた恋人が多重人格者だったのでよくわかります。

 

多重人格者の中には糖尿病なのに人格が変わると糖尿病の症状がでなくなってしまうこともあるそうです。

 

ということは、今自分が信じている経験というのも幻影で死んだらまた別の生、経験が待っていることになります。経験も無常なのです。つまり経験も自分ではありません。

 

 

最後、識別ですね。

 

識別とは判断とか心の働きのことを指します。

判断しているのが自分なんだ、この様に思っているのが自分なんだと普通の人は思います。

 

よく、宗教で説かれている事というのはいちばん大事なのは心の働きなんだと。

心を綺麗にすれば良いんだと。

 

しかし、仏教では心の働きすら超える教えが説かれています。

心は無常です。必ず変化します。

 

どんなに心がきれいな人でも、汚れるかもしれないし、精神病になるかもしれません。

どんなに心が汚い人でも綺麗になるかもしれません。

 

 

なので心を超えた真我(アートマン)、本当の自分に至る教え、それが仏教です。

 

では真我、アートマンはどこにあるかというと五蘊を超えた所にあるわけです。

三界、つまり現象界(欲六界)、アストラル(色界)、コーザル(無色界)を超えた先にあります。

 

ではどのように超えていくかというと五蘊の要素を捨断していくわけです。

五蘊、肉体、感覚、イメージ、経験、識別のとらわれを捨断していきます。

 

 

五蘊を捨断すると、とらわれがなくなりありのままに見ることができ真我独尊の境地に至ることができるのです。

 

五蘊の捨断については難しい話しになるとおもうのでこの話では簡単に説明して割愛させていただきます。

 

最後に。四念処の記事を読んだ方は五蘊と四念処そっくりだとお気づきになった方がいるかもしれません。

 

お気づきの方は直感力が鋭いですね。

 

 

四念処は肉体、感覚、観念、心を指します。

 

四念処も五蘊も同じ自分自身を構成するものを指しているということが言えますが、分類方法が違うわけですね。

 

例えば丸いケーキがあって4つに切ることも出来るし、5つに切ることもできます。

4つに切ったのが四念処で、5つに切ったのが五蘊です。

 

でもどちらもケーキを指していることと同じように、四念処も五蘊も同じことを言っているということが出来ます。

(もっと詳しく知りたい人はこちらへ→こちら

 

四念処と五蘊の話を締めくくりとして

それでは今日の話はここでおわりましょう。

第二十八話 五蘊無我

仏教五蘊という言葉があります。

今日は五蘊について説明しましょう。

 

五蘊は漢訳なので難しい言葉のように感じますが、現代語に直すと

5つの集まりの集積と言うことが出来ます。

 

では5つの集まりの集積とは何かというと、私達のことです。

 

私たちは5つの集まりの集積、五蘊によって形成されています。

 

五蘊とは、色、受、相、行、識です。

 

これも漢訳なのでさっぱりわからないですね。

日本のお坊さんや、学者は漢訳を元に五蘊について考えているので恐らく五蘊の本質を理解している人はいないでしょう。いや、世界を見渡してもいないでしょう。

 

ということで世界発、五蘊の説明です。

 

 

色=肉体

 

受=感覚

 

相=イメージ

 

行=経験

 

識=識別

 

 

です。

ん?なんでこんな簡単なことが世界初なんだと思われたかもしれません。

そうなんです。

 

こんな簡単なことなのに、インドのサンスクリット語が中国語になって日本語になり伝わったのでわけが分からなく本質を見失ってしまうのです。

 

だから、日本のお坊さんがわけの分からない漢訳のお経を読んでいますが、意味がわからないので全く無駄、無意味ということができます。

 

 

話は戻りますが、私達は肉体、感覚、イメージ、経験、識別の集まりで形成されています。

 

五蘊無我というのは、私たちの本質は五蘊ではなく五蘊を超えた所にあるということを主張しています。

 

では一個づつ見ていきましょう。

 

肉体は自分でしょうか?

肉体は、2年経つと心臓以外ほとんどの細胞が入れ替わると言われています。つまり二年前の自分と今の自分は肉体的には物質的には全く別ということが出来ます。

 

例えば腕や足を切り刻まれたとしましょう。

腕や足が無くなったとしても自分は自分ですよね。

よって肉体は自分ではありません。

 

 

次に感覚を見ていきましょう。

目に見えるもの、臭っているもの、聞いているもの自身が自分なんだと思われている、感覚自体が自分だと思っている人がいるかもしれません。

 

では目が見えなくなったら、臭わなくても耳が聞こえなくなったら自分でなくなってしまうのでしょうか?

 

もちろん、感覚がなくなっても自分は自分ですよね。

目が見えなくなった途端別人になる人はいないと思いますし、麻酔を打って感覚が無くなった瞬間別人になる人はいないと思います。

 

 

次、イメージ。

頭でイメージしているのが自分なのか。これは自分でないことを証明するのは少しむずかしいですね。

 

イメージで分かりやすい例として夢を出しましょう。夢で見ているイメージは普段全然違う話だったりします。(夢は今の人生と過去の人生が混ざったイメージなのでわけがわからない話が繰り広げられると言われています。)

 

夢では空を飛べたり、自分の性別が違ったり、白黒の世界だったりするかもしれません。

でも夢を見ている自分も起きている間の自分も自分は自分です。

 

 

それにイメージは無常です。変化するということです。

 

 

子供の頃からずっとサッカー選手になりたいとか、芸能人になりたいとか色んなイメージを持つかもしれませんがいつかは変化しますよね。

また、一生同じイメージを持ち続けたとしても死を境に無くしてしまいます。

 

よってイメージは自分ではないということができます。

(もっと詳しく知りたい人はこちらへ→こちら

 

あと残り2つですね。

経験と識別については次回お話しましょう。